「なんでもないです」と答え続けた、その重さに気づいた

平日の昼、オフィスの廊下か休憩コーナー

「大丈夫?」と聞かれるたびに、「なんでもないです」と答えてきた。

嘘をついていたわけじゃない。そのときは本当に、なんでもないと思っていた。少なくとも、「これは話せるほどのことじゃない」と判断していた。職場で上司に聞かれたとき、友人に心配された顔をされたとき、家族に「最近どう?」と聞かれたとき。全部、「なんでもないです」か「大丈夫」で通してきた。

あるとき、「なんでもないです」と言いながら、自分が少し疲れていることに気づいた。疲れているのは、なんでもないということを、毎回瞬時に判断して、言葉にするという作業を繰り返しているからかもしれないと思った。問われるたびに、「これは言えるか、言えないか」を一瞬で決めて、「言えない」と判断して、「なんでもないです」に変換する。その処理を、ずっとやり続けてきた。


深夜のオフィス

「なんでもない」は、本当になんでもないわけじゃない場合がある。

話せないのには理由がある。心配をかけたくない。大げさだと思われたくない。うまく説明できない。話したところで何も変わらない気がする。これらは全部、正直な感覚だ。正直な感覚として、「話さない」という判断をしている。

ただ、話すことには、話す以外の効果がある。言語化するという行為そのものが、感情を整理する働きを持つ。頭の中でぐるぐるしていたものが、言葉にした瞬間に形をもつ。形をもつと、少し距離を置いて見られるようになる。これは認知行動療法の考え方のひとつで、思考と感情を切り離すための手がかりとして、言葉が機能する。

「なんでもないです」と言い続けることは、その言語化の機会を自分から手放していることでもある。


「なんでもないです」と答えた回数を、正確には覚えていない。でも、積み重なっている感覚はある。

その重さに気づいたとき、「もう少し違う場所に話す選択肢があってもいいかもしれない」と思った。職場でも家族でも友人でもない、自分のことを何も知らない人に、ただ話す場所。相手は専門家で、判断せずに聞くことを仕事にしている。そういう場所で話すことを「弱い」とは思わない。むしろ、「なんでもないです」と言い続けることの方が、少し消耗するかもしれない。

全部話す必要はない。うまく説明できなくてもいい。ただ、「なんでもないです」以外の言葉を選べる場所が、あるということを知っておくだけでも、少し違う。